■次の東京五輪と沖縄

 1月12日に沖縄・名護市長選は告示され、1週間後の19日に投開票され、新市長が決まる。この選挙が普天間飛行場の危険性除去と県民の負担軽減のために辺野古への代替施設移設することを、受け入れるのか、受け入れないのか、二者択一の厳しい様相を呈していることは先述した通りである。勝敗の帰趨はまだ何とも言えないが、平成8年の日米合意以来、合意内容が進捗するのか否かを占う意味で、この選挙が抱えている意味は大きいものがある。

 緊張した雰囲気の中、昭和39年の東京五輪時の聖火リレーが沖縄に入った時に、まだ沖縄が祖国復帰していない中で、沖縄県民が聖火を日の丸で迎えようとする気持ちがいから強く、日本国民同胞としての自覚を呼び覚ますものであったのか、その事実を産経新聞は当時の写真を掲載しながら、その事実を淡々と紹介している。東京五輪の開催が、敗戦後の日本復興の象徴として大切であったのかを実感するとともに、沖縄県民にとって米国の統治下であっても、自分達も紛れもなく日本人であることを腹の底から感じ取ったのではなかったかと思う。

 当時の新聞を見て、はじめて今日の沖縄・名護市民が正しい情報を受け取っていないのではないかと思ってしまうのだ。

 次回の東京五輪でも沖縄に聖火が来てほしいし、この時にこそ基地問題を解決した沖縄となっていてほしい。

 東京五輪開催と国民同胞の一体化、それを成し遂げるためにもこの選挙の帰趨は重要である。

●沖縄の聖火リレー [産経ニュース 2014.1.5 12:55 抜粋]

 昭和39年9月7日、沖縄・那覇飛行場は、数え切れない日の丸と小旗を持つ人であふれていた。終戦から19年、到着したのは東京五輪の聖火。この日から3日間、米軍統治下の沖縄を聖火リレーが巡り、島内は日の丸に染まった。

 当時、沖縄の公共建築物で日の丸掲揚が許可されたのは祝日だけ。飛行場や競技場で日の丸を掲げ聖火を迎えるのは不可能だった。背景には米軍が本土復帰運動の高まりを懸念したことなどがあった。が、地元メディアは「聖火を日の丸で迎えよう」という運動を展開。米軍は盛り上がる島民感情を考慮し、聖火リレーを国際的な祝典行事と位置づけ日の丸を黙認した。

 降り立った聖火は第一走者、宮城勇さん(71)=沖縄県浦添市=のトーチにともされた。純白に日の丸と五輪のユニホーム。聖火を高く掲げると、飛行場全体が「万歳、万歳!」の大歓声に包まれた。当時22歳の宮城さんは「自分たちも日本人なんだ」という感覚が全身を貫き「震えが止まらなかった」と振り返る。

 島内の競技場で開かれた聖火歓迎式典では米側の粋な計らいも。普通、沖縄の米軍基地では星条旗、日の丸の順に掲揚されるが、この日は君が代とともに日の丸が先に揚がった。集まった約4万人の中には涙する人もいて、本土復帰を果たしたようだったという。

 沖縄本島を1周した聖火は10月10日、東京・国立競技場にともされた。沖縄の日本復帰は、それから8年後の昭和47年だった。 (写真報道局 大山文兄)